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2015年6月30日ネパールから現地レポート第2弾が届きました


みなさま

あの大地震から2ヶ月になろうとしています。6月に入ってからは幾分少なくなってきたものの、まだ、ほとんど毎日どこかで余震があります。6月17日も朝6時前カトマンズを震源地にマグニチュード4.4の余震がありました。日本で地震に慣れているはずの私ですが、“地鳴り”を聞いたのはこの時が生まれて初めてでした。続いて、最初の地震の震源地ゴルカやシンドパルチョークでも同様の余震があり、この地域では、カトマンズよりも頻繁に強い余震が起こっています。

世界各国から届いた救援物資は、もらえている人もいるし、もらえていない人もいます。特にネパールは山国で交通が発達しておらず、車が通れる道から何日間も歩かないと着けない村もあり、そういう所には、ネパール軍が救援物資をヘリコプターで落としたりしています。政府は、被害がひどかった地域を優先的に救援物資の配布をしていますが、到底手が足りません。一般人やNGOも大勢、活躍しています。国内外の有名人達も大勢、協力しています。

カトマンズはここ10~20年で田舎からの出稼ぎ者で人口が倍増し、そういう人達は家賃が安い古い借家に住んでいる為、今回の地震で家屋倒壊被災者の大半を占めています。役場や有志の人達が炊き出しを行ったりしていますが、公園や広場にもらったテントにぎゅうぎゅう詰めになって住んでおり、飲み水やトイレなどの衛生問題もあります。

それだけでなく、6月から雨季に入り、丘陵地帯は地震による地割れに雨が浸み込み、土砂崩れが数多く発生しています。また、土砂でせき止められた川が、氾濫したりもしています。地元住民は地震でも避難し、今度は土砂崩れで村が流される危険からも避難しなくてはならなくなり、満足に食事もできない状態で、ネパール軍が食料をヘリコプターから落としたり、逃げ道が無い為に、少人数ずつでも安全な場所へ移動させたりしています。

5月31日から、地震のために全国で臨時休校になっていた学校が、一斉に始まりました。そして、昨日、サンクー村へ行って来ました。報道では、サンクー村の95%が家屋倒壊と伝えられています。5月3日に行った時には半壊だった本屋兼文房具屋の家も、5月12日のマグニチュード7.3の強い余震で全壊していました。中央商店街のあたりは全滅で、住民や警察が共同でがれきを片付けてはいますが、まだまだ道はがれきであふれ、歩くのも一苦労でした。

ネパール人にとって家を建てるのは、一生に一度できるかできないかの一大事です。お金がたくさんかかるので、「住めるものなら、古くたって我慢して住んでいる」場合が多く、特に、サンクー村は貧しく、天井や階段は木の、壁は日干しレンガを積み重ねて土で固めただけの、築50~100年近い古い家が多いため、今回のような大被害になったのです。ネパール人は地震に慣れていない為、新築したとしても、耐震構造にする人はほんの一部です。そんな中で、サンクー小学校の校舎が無傷だったのは、日本の多くの皆さんの善意で建てるのだからと、学校建設委員会を始めとして、村人や先生方も私達と共に皆が一丸となって協力し、基礎工事をしっかりし、鉄筋コンクリート製で頑丈に造ったからで、このような大地震にも耐え、被災者の避難所になれて本当に良かったです。

ネパール政府は専門家に依頼して、被害が大きかった地域を中心に、建物の安全性を調査したグリーンスティッカー(安全)、イエロースティッカー(要注意)、レッドスティッカー(危険)を貼っており、もちろん、サンクー小学校はグリーンです。学校は始まったものの、校舎が危険では安心して授業も受けられません。田舎のほうでは、倒壊した学校が多々あり、倒壊は免れても大きなひび割れでいつ壊れるかわからない、使えない状態の建物もたくさんあります。もし、地震が土曜日でなくて、平日に起こっていたら?学校にいた子供が大勢、犠牲になっていたことでしょう。自宅などで倒壊の恐怖体験をした子供は、建物の中に入りたがらず、校舎は安全でも、わざわざ校庭で授業を行っている学校さえあります。そんな事情で、サンクー小学校の生徒数は、他校に通っていたが校舎が倒壊したために転校してきた子供、家が倒壊したために引っ越して転校してきた子供などで、だんだんと増えています。

この度は、多くの皆様から地震災害援助金を東京都第43団にご寄付いただきまして、本当にありがとうございました。心より御礼を申し上げます。その援助金で何ができるのか?団と連絡を取り合いながら、先生方ともじっくり相談しました。増え続ける生徒数に、ジェスタ月末日(6月15日)で一応区切りをつけ、先生方に、生徒一人ひとりから家族の安否と住居の状況を聞いてもらったところ、生徒達、先生方、学校関係各位の全員の家が全壊か半壊でした。

当初、6月から雨季が始まる前に、一刻も早く住む場所を確保するよう、テントかトタンの支給を考えていましたが、テントはある程度は救援物資から配布されているし、トタンは政府が支給する計画で、いくつかの村ではもう支給済みです。また、カトマンズからトタンを運ぶと、サンクーに着く前に、途中の村の住民達が「自分達に先にほしい」と道を通してくれない可能性(そのような例が他の村でいくつも起こっている)がある為、仕方なく止めにしました。まして、生徒達は貧しいので、持ち家に住んでいるのは少なく、ほとんどが借家に住んでおり、自分や親戚の土地でなければ、トタンでも家を建てることはできません。また、一人ひとり全員にトタンの家1軒ずつを建てるための十分な援助もできません。そして、食べ物はだいたい救援物資からもらえているという話を聞いたので、十分なことはできなくても一部の足しにしてもらえて、それぞれの事情に合わせて融通が利くようにと、生徒自身か家族が死亡した場合、先生方と用務員さん、学校運営委員会や学校建設委員会に関係する方々、持ち家が倒壊した生徒、借家が倒壊した生徒、地震後に転校してきた生徒に分けて、お見舞金を支給することにし、生徒の親御さん方に受け取りに来てもらいました。

5月3日に干し飯を渡した4年生男子生徒は、5年生の次姉と長姉とその娘を亡くしました。突然の大きな揺れで崩れた家の中に、3人が抱き合うようにして埋まっていたのを発見したそうです。父親は以前に亡くなっていて、お見舞金を受け取りに来るはずの母親は小作人で、遠くの畑に農作業をしに行っていて来れず、次兄と本人の前で渡し、先生に預かってもらい、母親が帰宅後に渡してもらうようにしました。4月に入学したばかりのハーフクラスの女子は、母親を亡くしました。父親に手を引かれた、まだ幼ない彼女を見て、涙が流れました。学校建設委員会で会計を務めた方は、もう相当の年配ですが、校庭に隣接する家がめちゃくちゃに壊れたにもかかわらず、幸運にも生存していたので心が救われました。そこの近くの前校長先生(娘さんも当校の先生)の家もバラバラにひどく壊れていました。

この日は同時に、新年度の政府支給の教科書配布が滞っていたため、我が団から毎年支給している補習教科書と毎月支給しているノート鉛筆ボールペンを配りました。最後には、ジュースとビスケット2袋も全員に渡しました。生徒達も親御さん方も、笑顔で下校していきました。これから、例年の制服や運動用具も支給する予定ですが、生徒数が増えているので、費用がかさむ見込みです。

地震後、外部の救援物資から毎日、生徒達と学校内に避難している人達に、卵と牛乳、パンなどの軽食が与えられていますが、その食料援助も期限切れが迫っているとの事です。期限が切れたら、元々から貧しい家庭の生徒達は、再び、途方に暮れてしまうかもしれません。どうしたらよいのでしょうか。

2011年の東日本大震災の時、東北地方の成人会員の方が、自らも被災しながら、他の被災者のために何足もの靴をはきつぶして援助をされた話を聞きました。私達はそこまで大きなことはできないかもしれませんが、無事だったことに感謝して、出来る限り一生懸命にネパール地震被災者のために力を尽くして行こうと思っています。引き続き、皆様のご厚志を賜ることができましたら幸甚に存じます。 団ブログ ネパール大地震支援金口座について および、ほかの記事も合わせてご覧下さいませ。

2015年6月20日

ガールスカウト東京都第43団 伊勢 香

ガールスカウト日本連盟では、今回のネパール大地震に対し寄付を募集しています。
日本連盟からの支援内容は、現在ネパール連盟と協議中です。

なお、サンクー村小学校への直接支援については、東京都第43団のブログをご覧ください。

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