5月22日は「ガールスカウトの日」

思いと願い

今日、5月22日は「ガールスカウトの日」です。
この日の由来をご存知ですか?
戦後すぐの昭和22年5月22日に、ガールスカウト運動を復活させるために旧「日本女子補導団」メンバーが集まり、「中央準備委員会」を発足しました。
ガールスカウト運動の復活には、後にガール・スカウト日本連盟初代会長となった三島純が大きな役割を果たしました。

日本女子補導団との関わり

三島純は日本のガールスカウト運動の始まりである「日本女子補導団」時代に副総裁を務めていた人物です。日本にボーイスカウト運動を広めた一人である三島通陽氏の妻であったことから、1922年(大正12年)、22歳のときに請われて日本女子補導団の副総裁に就任しました。

後列中央 和服姿の女性が三島純

女子が家を出て活動することが少なかった時代に、女性が妻や母としてだけではない社会的な役割を持ち、少人数の少女たちによるグループワーク活動や、キャンプなどの屋外での活動などをおこなった女子補導団の活動は、とても画期的で新鮮なものでした。

手旗の訓練をする補導団の少女たち
1927年当時の制服

女子補導団の役員になった母は、役員会には香蘭女学校へ、また一方でラリー、キャンプ等の少女達の活動にもでかけることが多くなりました。補導団で制定した和式の制服はメリンスの紺色無地の着物、同色の袴姿で洋髪で色白の母には、とても若々しくみえました。(中略)野外活動には、大磯・塩原の別荘を夏期キャンプに提供したり、賛助会費を集めたり、なんとハンドブックの和訳にまで乗り出したのですから驚きます。(三島昌子著『バァーバはガールスカウト 翼をもらって』より)

三島純が着用した日本女子補導団 副総裁章

しかし太平洋戦争によって、日本女子補導団は1942年に解散を余儀なくされました。

復活へ「だれの手を待つまでもなく、私たちの手で!」

戦後、GHQ民間情報局(CIE)では、日本女性が1947年まで参政権も持たず、男性に従ってきたことから、自主性を育てる必要を感じていたようです。女子補導団(ガールスカウト)の教育活動は、CIEの期待に合致するものでした。また連合軍の女性の中には、アメリカのガールスカウト経験者も多くいたことも、ガールスカウトを率先して支援することにつながりました。
いち早く夫の三島通陽氏がGHQと接触し、ボーイスカウト運動の再開を図っていたことから、三島純が日本女子補導団関係者を集めるために連絡役となります。散り散りになった関係者や旧団員に連絡を取り、参加を呼びかけました。

当時日本は荒廃のただ中にありました。東京の街には、家族を失った子どもたちがうつろな目をしてさまよい、だれもが自分たちの生活で精いっぱいで、他人のことに手を貸すまでのゆとりもない時代でした。
そんな中集まった女子補導団関係者たちは「だれの手を待つまでもなく、私たちの手で!」を合言葉に、立ち上がったのです。1947年1月に最初の会合があり、その後正式に準備委員会が発足した日が、昭和22年5月22日でした。

日本連盟執行部のメンバー
右から2番目が三島純

この最悪な社会情勢の下で満足な会合が開けるかという不安の一方、何か明るい希望の光が差し込んだような心持がいたしました。
(社団法人ガール・スカウト日本連盟発行『ガール・スカウト半世紀の歩み』三島純の寄稿文より)

三島純は自宅を中央準備委員会の場所として提供し、CIEとの交渉などに尽力しました。そして2年後の1949年4月には第1回全国総会が開かれ、中央準備委員会は発展的解消の日を迎えることができたのです。

1948年6月、中央準備委員会主催の指導者講習会に集った女性たち(東京都小金井の浴恩館にて)

その後も一貫して日本のガールスカウトは、女性による少女への教育をおこない続けてきました。今日の私たちの活動があるのは、焼け野原で、ガールスカウトの活動に光を見出し、懸命に再建に努めた先人たちのおかげです。
未来を担う少女たちが自分の人生を自分で切り拓く力をつけ、幸せになれることを願って、これからも、私たちはこの運動を継続していきます。

現在のガールスカウトたちの「ガールスカウトの日」の活動も、ぜひご覧ください! ありがとうの輪を広げよう

引用・参照書籍
『ガール・スカウト半世紀の歩み』社団法人ガール・スカウト日本連盟
『日本のガールスカウト運動 付資料編』社団法人ガールスカウト日本連盟
『女子補導団ー日本のガールスカウト前史ー』矢口徹也 著
『バァーバはガールスカウト 翼をもらって』三島昌子 著